昭和40年07月07日 朝の御理解
信心の究極のところ、ぎりぎりのところ、信心の稽古さして頂く者の、最後的段階というか、目指しというか、それは人生の重大事、まあ言い換えるなら、私共が閻魔様の前に出たとき、安心して閻魔様の前に出られるかどうかという状態を作って置く事だと私は思うですね。もう人生の重大事、もうこの事以外は無い、私共がぎりぎりのところです、ね、いうならまあ仏教的な言葉ですけれども、閻魔様の前に出る時に安心して閻魔様の前に出れれる状態にならせて頂く為に、お互いが信心の稽古をさせて頂いて、その過程において病気であり災難であり、様々な人間関係の苦悩であり、難儀という難儀それは全部、そこん所を開眼さして貰う為の段階に過ぎないそれは。
ところがそういう事だけが一生信心でだから、もし終ったとするならばです、信心の本当の値打ちというのは、本当にごく、その、希少価値というか、信心の値打ちというか、まあない事になるんです。ですから、信心はね、ぎりぎり矢張り誤魔化しのない信心でなからなければならないと云う事になるです。
ところがその私共のね、誤魔化しというて始めから誤魔化す人はないでしょうけれども、要領やら利口だけではいけない、それだけででも、例えば一歩でもこちらに足を向けてくりゃ、一歩でも無駄にはさせんと仰る程の神様ですから、おかげを頂いてもです、その自分の心の中に安心が頂いて行けるという方がありましょう、も究極の所そうなんです。
昨夜御祈念の済んだ後に昨日はもう終日体が、もう全身私は動きませんでした。夜の御祈念の時にはまたおかげを頂いて後、久富先生と繁雄さんに奉仕して頂きながらです、繁雄さんからどう云う様な事だったんでしょうか、あの話を聞かせて貰ったんですけれど、若い青年時代に篠栗さんにお参りをしたという話からだった。ああそうそう、この前、飯塚行く時に篠栗の町を始めて通ったという話からだった。私も若い青年時代に、矢張りその信心が何とはなしに好きだった。
教祖様のごとあるのちゅうてから話した事です。教祖様は若い時にあの四国参りをなさっておられますもんね。それでもう、それこそもう篠栗さんに、八十八ヶ所でしょうか、四十八ヶ所でしたねやっぱ。その一ヶ所、一ヶ所札を納めてお参りして回るんです。そでも大概の人はもう谷の向こうに御座るお大師様とかですね、その山の向こうに御座るお不動様とか、こっちの方から拝みゃいいだけで通るらしいんです。
そこは繁雄さん的なものがあるです、私はもう折角お参りしたつだから、どんな隅に御座るお大師様でもお不動様でもお参りして回ったという話を聞かせて頂ながらです、三人連れだったらしいんですよ、奥の院に大きな岩と岩の間を金の鎖を通って、その行かんならん所がある、そこに普通その悪かこつしとるもんなですね、この岩がひっつくそうです。岩がこうあの、人間の体をはさんでしまう。
だから中々心の曲がった人やらは、ここを中々通り切らんと云う様な伝説的な話が残っておる個所があるそうです。はあ、中々やっぱり、その気持ちの悪い様な所だそうですね、岩と岩の間を通っ時に岩が引っ付きどんするなら、人間の体がびっちゃげてしまう、そう云う様な所をです、何時でもこう、例えばもうそれから真剣にですね。矢張りある女の人が、その悪い事をしてです、した人だったらしいですけれど。
そこが通らせて頂よる時に、なんかねこの髪の毛がそれにまかって、その髪の毛を取られたと云う様な、その奇跡がそこであったといったような話がそこに残っておるそうですが。今日、私が言おうとしておるところは、そう云うところを通らせて頂くのにですね、安心して通れるような、自分になっておくと云う事なんです。どういう関所であろうが、どういう難関であろうが、誤魔化さんで通れるような、自分である事なんです、究極のところは、信心とは。
4、5日前でした。西日本の新聞に何か昔の明治時代、大正時代の小学校のなんか、読本みたいなもんが入っていましたですね、読本の何かが一週間に何べんか出よるんでしょう。それにあの清貧に甘んずると言った様な事が現代の人には分からないと、何の為に清貧に甘んじなければならんかと、例えば清貧というのは、清い貧乏と云う事なんです。身は何時も正直で悪い事をしない。
それでいて、何時も赤貧を洗うが如しと云う様な、貧乏をしとっても、そんな事はひとっつも問題にしない、まっすぐ世の中を通って行くと云う事、そう言う様な事を現代の人の考え方では、合点がいかんと。よくそんな人がありますよね。特に宗教家なんかに多いですよ、もう本当に仏様の様な、神様の様な生活させて頂きながら、何時も身は清貧を洗う様な貧乏の中に、神様の御恩徳の中に又は。
仏様のご慈愛の中にあると云う事だけを有り難いというて通っておるという、教育家なら教育家のなかにでも、そういう人達がある、そう言う様な事をいうて聞かせても、現代の若い人達んには、通じないと云う事、それは現代ではなく、その昔だって同じだった、昔たとえば、私共がそう云う事であったって、私共でも、それは合点がいかんと思うです。そんな筈じゃないからなんです。
本当の意味あいにおいての清らかなというか、精進というか改まりに改まり、磨きに磨してですたい、神様の願いを本気で行じさせて頂く所にです、そんなに何時までも精進が続かないと云う事、貧乏しょうと思ったちゃ神様がさせなさらんと云う事。ですからもし、あの人は神様の様な人、仏様の様な人じゃとというてもです、何時までも例えば難儀が続いておる、貧乏が続いておるというならばです。
その人は偽善だと云う事を、私は言うです、思うです。ほんなもんじゃないってそれは、皆さんでもそうじゃないかと。私共が究極の所、只今申します様なですね、ぎりぎり閻魔様の前にでらせて頂く事をです、不安とも思わない、安心して閻魔様の前に出られる様な状態を目指して信心を頂く限りです、そんなに、どんなにそれが清らかな貧乏であってもです、そんな貧乏が何時までも続いて来る筈は無いと云う事。
こちらが改まれせて貰う、こちらが本気で変わらせて頂く度合に応じてです、信心も出来んのに此の様なおかげを頂いて勿体なし、と言った様な物が付いて来なければならん、それが信心なんだ、私は真の信心とはそれだと思う、ですからいうならばです、私共が、私共の前に横たわる所の様々な、難儀と、難関と云う物をです、私共が真の信心によってです、そこを通過させて貰う。
通り抜けさせて貰う、( ? )頂くだけの力なんです。そこには直ぐにとは行かんでもです、私共の持っておる真心限り、私共の精進の限りを尽くさせて頂いてです、ここんところを乗り切らせて頂く所に、どんなに閻魔様前の難関、難所であっても、どんなに岩と岩が引っ付いておるような所であっても。一心にお縋りさせて頂けば乗り越えて行く事が出来るという確信が持てる、安心が持てる。
その度合がいよいよ有り難いものになる、いわゆる信仰的感動なんです。最近お道でも宗教的情操という子とが言われる、長年段々信心をさせて頂いておればです、何とはなしにその信心の表現というものを身を持って、言葉をもって表現する様になる。信仰的言葉を使う、おかげを頂きまして有難う御座います、とか実意丁寧は身に付いておらんでも。何とはなしに信心させて頂いたら、実意丁寧なごたる風に見えて来る。
御本部辺りであれは見聞き致しますですね。もう実に実意丁寧なものの言い方、態度なんかでも実に実意丁寧、それでいて何時までも清貧に甘んじて御座る、と言った様な人達を見受けますですね。あんな事があって良い筈ないです。どんなに素晴らしい先生だというても、その人自体が助かっていない、その人周囲に光が無い助かりが無いというならばです、そら、おかしいです。
ですから、宗教的ただ情操が身に付いただけではいかんです。なんとはなしにですよね、宗教家なら宗教家のうちに育ったり、一緒におったり致しますと、その宗教の雰囲気と言った様な物が身に付いて来るというだけではいかん、いわゆる只今私が申します様に、ぎりぎりの所、私共が閻魔様の前に出た時に、安心して閻魔様の前にでれれる様なおかげをいただける状態を目指してです。
改まる事に磨かせて貰う事に精進させて頂く事にです、誤魔化しのない生活、信心生活が段々出来させて頂く時にです、様々な難儀、様々な問題をです、信心によって切り開かして貰う。信心によってそこの難所、険所と云う所をです、乗り切らして頂くときに真一心、神様にお縋りさせて頂いて改まって行き、磨かせて頂いて行く所に焦点を置いてのおかげさえ頂いて行けば、どげな所でも乗り切られん筈はない。
閻魔様の前だって、言わば有り難いいみあいにおいて通り抜ける事が出来るというですね。信心をしなければ頂けない所の、信仰的感動と云った様な、いわゆる信心の喜びと言う物がです、おのずと信仰的な情操になって来るという様な物でなからないかんです。皆さんどうでしょうか、本当にお互いがです、本当に私は人生の一番大事な問題なんです。そこを人生の重大事とこう、私共がいよいよ身に詰らせて頂いて。
いよいよ間閻魔様の前に出る時に、果して私は安心して閻魔様の前に出る事の出来る私であるかどうかと、いや出れる私ではない。それが解る時にです、しら真剣のお詫びが要り精進が要り、改まりが要る、そういう私は信心をさして頂かなければならんのが、そう言う所に目指してからのものでなければならないと云う事、そのひとつの稽古の、閻魔様の前でる為の稽古の様なもんです。
一つの難儀と言う物は。してその難儀と言う物がです、一つ々おかげになって行く、だから先にどういう難儀があってもですよ、ここが通り抜けられるんだという確信が段々もたれて、言わばいうなら死生の安心というか、そういう一つの安心した死生観と言う物が身に付いて来る、そこから生まれて来る所の信仰的喜び、感動それがおのずと宗教的情操と言う物に成って来る。
私は卑しくもお道の信心をさせて頂く者がです、一生清貧に甘んじておると言う様な人がもしあるとするならばです、それはいかに素晴らしい生き方をしておる様見えておってもです、その人は私は偽善家というても私は間違いないと思うです。どんなに人から立てられた先生であってもです、その人自身が助かってござらん、その人の教会に一つもひれいがない、人が助かる場がないならばです、それは可笑しいです。
私共が疑問を感ずるならです。そう云う所に疑問を、私共は、私共も矢張り清貧に甘んずると言った様な事はお道の信心によってからは、私共も疑問を持つ、可笑しいと思う、成程一段一段、例えばその先生であるならば、その先生のお広前がです、立派になって行く、ご信者さん方も段々助かって行かれる、なら例えば人はどう非難しておろうがです、その先生は神様の目からご覧になれば。
立派な閻魔様の前に出る時に、本気で安心して出られる事の為の精進がなされておられる、先生であると云う事に私は言えると思う。そうでしょうが、ですからそれはお互いの信奉者の上においても理屈は同じ事なんです。段々、それがさあ信心を始めてからさあもう、と云う訳にはいかんに致しましても、段々そういう信心が身に付いて来て、ぎりぎりの究極の所に信心の目指しがおかれる様になってです、その事の為に一家中の者が精進させて頂く所の信心。
そして3年目5年目10年目20年目に段々段々成程家繁盛、子孫繁盛の土台基礎というものが出来て来る、人柄が一筋になってと仰る様なです、人柄も良く成って来ると。家庭状態も良く成って来る。経済状態も段々裕福になって来ると言う様なです、おかげが身に付いて行って始めて最後的な所に至った時にです、おかげが受けられるという、一つの安心がです、確立されると私は思うですね。そういう信心をお互い目指しておられます、ですからいよいよそこんところをに焦点を置かなければならないと私は思うですね。おかげ頂き……。